Jan Van Eyck ― 2009年08月01日 21時52分44秒
個展が終わってからこっち、完全にふぬけております。
『制作の締め切りが無い』という状態が約1年ぶりくらい?にやって来て、
今なんにも予定がないので、ぐでぐでな生活を送っております。
こういう時こそ、色々やらないといけないのになー。
と、昔は私もあくせくやっておりましたが、
トシ取るとなんかそんなあくせくも無くなってしまい。
『まー、やらないといけなくなったら、またそん時やるかーヽ(´・`)ノ 』
みたいな。
ぐでぐでを正当化する面の皮の厚さもありありな、今日この頃。
みなさまいかがお過ごしですか?
(でも、ある日突然何か依頼が来たら、泣きながらやるんでしょう、きっと)
* * *
さて。
絵画に興味無い方にはつまらないかもしれませんが、
今日は、画家Jan Van Eyck(ヤン・ファン・アイク又はファン・エイク)
について書いてみましょう。
(ごめんなさい、興味無い方、ここでさようなら!)
Jan Van Eyck(ヤン・ファン・アイク又はファン・エイク)
私が持ってるVan Eyckの画集(?)と呼べるものは、
以下の写真のとおり。
左から時計回りに、
『新潮美術ROM ファン・エイク』
(※絶版です)
(新潮社/ボイジャー/1997/ISBN4-10-850103-9)
このCD-ROMは画像がよく、音声解説も過不足無く、素晴らしいです!ファン・エイクだけでなく、同時代の画家の作品も収録。部分的に画像の拡大も出来るし、関連作品へのリンク張りもしてあって、至れり尽くせり。見たいところにすぐ手が届く。定価¥7000となっているんですが、某家電量販店のCDソフト在庫一掃ワゴンセールで、¥3000で投げ売りされてたところを、私が救いあげました。よくぞあんなとこで出会えたもんだー。感謝!
『神秘の子羊 ゲント 日本語版』
(※絶版?ていうか、出版社存在してるの?ネット古本屋で在庫発見!)
(Ludion Gent-Amsterdam/2001/ISBN90-5544-293-3)
ベルギーはゲントの聖バーフ寺院で買ったこの本も、『神秘の子羊』好きにはたまらない。小さい本なのに、細かい部分の拡大写真と解説がぎっしり!写真も綺麗。オランダの出版社だけど、各国言語版を出している。でも今は手に入らない?現地ではどうなんでしょう?
『西洋絵画の巨匠12 ファン・エイク』
(小学館/2007/ISBN4-09-675112-X)
つい先日、やっと買いました!欲しい欲しいと思いつつ、ファン・エイクの全作品が載っているような画集を買ったのはこれが初めて。図版の色が綺麗です。同時代の他の画家の作品との比較資料も満載で、かなり立体的な編集がしてあります。なかなかよろしい!
「私はファン・エイクが好きだ!」と長年に渡って叫んできましたが、
ファン・エイクに関しては、
『画集買うより先に本物をいっぱい見ちゃった!』
という、幸せがあったため、なかなか画集を買う気にならなかったのでした。
初めて見たのは何だったのかな・・・
多分、ベルリンの国立絵画館で見た、『教会の聖母子』。
同じ旅で見た、ベルギー・ブルージュのフルーニンゲ(又はグロエニング)美術館の、
『ファン・デル・パーレの聖母子』・・・
と、その後の旅でも、代表作と言える、
『アルノルフィニ夫妻の肖像』
『赤いターバンの男』
『神秘の子羊祭壇画』
『ロランの聖母子』
・・・と、見て来ました。
どの作品が好きか?と問われたならば、
1位『神秘の子羊祭壇画』
2位『赤いターバンの男』
3位『ファン・デル・パーレの聖母子』
でしょうか。
有り体に分類すると、この方は『写実』ということになるんでしょうが、
精緻に描きすぎて、逆に現実離れしている、とも言えますね。
描きすぎて変な妖気が漂ってる、みたいな。
『本物以上に本物みたい!』
現代なら、単純に誉め言葉とは思えないようなこの表現ですが、
まだ中世の、ペタンと平面的で図式的な絵画の名残が強かった当時、
「本物みたいに描く」ことは、超革命的なことだったのです!
それに、イタリアの画家ジオットにより、
数学的な遠近法が絵画に導入されて間もない頃の人なので、
本場イタリアから、技法がきちんと伝わっていたとは思えず、
空間描写が、図学的には狂っているはずなんですが、
それを感じさせないところがスゴイ!
普段自分が目にしている空間を、その通りに描けば、
消失点から線を引っぱらなくても、自然な空間描写ができる。
それを計算でなく、日頃の経験から、素手でやっちゃった人です。
それくらい絵画制作の腕が良かった人なのです。
あと、お兄さんのフーベルトと二人で、顔料を油で溶いて使う、
現在と同じ製法・用法の「油絵具」を初めて開発した人でもあります。
(それ以前は、顔料を水と卵や膠で溶いて使っていた)
これによって、顔料の発色が格段に良くなり、重ね塗りも出来るようになり、
絵画という表現媒体の質が、すばらしく向上したのでした。
私がJan Van Eyckの好きなところ。
決定的なのは、『神秘の子羊祭壇画』の、画面構成のアンバランスさ。
『神秘の子羊祭壇画』(ベルギー・ゲント 聖バーフ寺院)
(この作品が存在していなければ、Van Eyck兄弟の名前は、
今よりもっと過小評価されていたはず)
天上界を現す上段画面に描かれている人物が異様に大きく、
下段に描かれている人物が小さい群像で、
空間の奥行きも、下段が画面の遙か奥まで視線が誘導されるのに対して、
上段は天上人が立ちはだかって、空間が塞がれています。
下段に比して、この上段の威圧感は何なんでしょう?
まるで上下別々の祭壇画をくっつけただけのようにも見えます。
これ以外に、ここまで上下に差のある祭壇画は見た記憶がありません。
が、この奇妙なバランスに、強く惹きつけられるのです。
祭壇画なので、本来高い所に掲げられて、
礼拝に訪れた人々はそれを下から見上げる形になるのですが、
下から見上げると、きっと上段の大きな天上人たちから、
見下ろされている感じになったのかもしれません。
お兄さんのフーベルトが注文を受けて描き始めたものを、
後にヤンが引き継いで完成させたとの説が有力な作品ですが、
多分、パネルごとに作者が違うのではなく、
全体の下描きから途中の塗り重ねまでをフーベルトが担当し、
残った塗り重ね部分を、すべてヤンが描いて最後に仕上げた、
という分担なのではないかと思います。
だから、現在最上層に描かれている絵が、ヤンによる筆と思ってよいと思います。
(いまだに諸説あるようですが)
尚、下段左端のパネルは盗難に合ったまま行方不明。
現在はレプリカがはめ込んであります。
下段中央の神秘の子羊の体の、脚以外は、破損により後年加筆されたものです。
-----ちょっと脱線しますと・・・
この絵のバランスのおかしさは、平沢進のアルバム『点呼する惑星』で言うと、
『王道楽土』『Mirror Gate』のように、
違う性質の楽曲を無理矢理合体させたような、
唐突でいて新鮮な感じが、近い感覚かと。
ものすごく変で、暴力的だけど、惹きつけられる感じ。
でも、2曲ともいいでしょ?
それと、、、
正反対の意味を持つ、本来繋がらない言葉を、無理矢理に繋げて、
しかも、どこか奇妙で新しい感覚を生じさせてしまう、平沢さんの歌詞も、そう。
『神秘の子羊祭壇画』も、見た時にそれと同じような、
何か、違うものどうしがくっついてて変なんだけど、
不思議と一体感があって、妙に革新的で、
新鮮な感覚を、覚えてしまうんですよ。
-----脱線終わり
で、つまりJan Van Eyckのどこがそんなに良いかというと、
・絵画である以前に、物体として、尋常じゃなく美しい!
・細部の密度はもとより、全体も緻密であるにもかかわらず、破綻がない
・画家の研ぎ澄まされた神経・気持ちの良い緊張感が伝わってくる
・物も人も、描写に独特の硬質な感じがあって、絵が引き締まっている
・作品が醸し出す空気が、とにかく、理知的で明晰
・描かれるものすべてに象徴的な意味があり、濃密な物語を内包している
・描写の密度が執拗に高く、どれだけ見ていても飽きない
・密度が高すぎて、少し気味が悪いところがいい
・バランスが狂ってるところがあるのがいい
・この人の描く、少し東洋的な人間の顔が好き
うーん。
こんなんじゃ、何も言い得てないと思うのですが、
特に私が好きなところは、異常に緻密・妙に硬質・理知的・情報量が多い・物語がある。
単純に言うと、こういうことです。
もちろん、絵画の歴史的に、それまでなされなかった偉業を成し遂げた人なので、
そういう意味でも、絵画史に残る世界的な巨匠であることは、間違いありません。
作品から推測するに、ヤンという人は、頭がすごくよくて、精神的に落ち着いていて、
めちゃくちゃキレ者だったろうと思います。
もし私が同じ時代にゲントに居たら、
毎朝アトリエに通うヤンさんの後ろ姿を、壁の陰から、
ハートマークで見送っていたことでしょう。
「ヤンさん、すてき・・・」
(*‥*)
(完)
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やまさん
まだまだ、ロータスさんの季節は終わりませんよー!
やまさん、去年の今頃の栽培記録を見てください。
やまさんちの蓮ちゃん、綺麗にお花咲かせてましたよ!
と、いうことは・・もう早枯れつつある、今年のやまさんちの蓮は、
調子があまり良くない可能性があるので、
注意して見てあげた方がよいかもしれません。
(なんちてー!5年間失敗し続けている者の言えることかい!)
うちは、なんとか盛り返してきたので、とりあえず一安心。
ヽ(´・`)ノ ホッ
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どっこい!生きてるんですー!
『Lotusのツボ5』更新!ご覧ください!
では本日これにて。
合掌 (-人-)
はい、けっこう ― 2009年08月11日 23時20分47秒
あああああああああああ
湿気ている、湿気が、湿気がああああああああ!
みなさんこんにちは、湿気てませんか?
私はめちゃめちゃ湿気ています。
不快指数200パーセントです。
おまけに6月の個展の反省点をぐるぐるぐるぐる考え続けてて、
気持ちが病んでおります。
私が悪かったことは、分かった。
分かったから、もう言わないでくれ!
と、自分に言っても、自分は何度も繰り返して言うわけ。
ああああああ、もう分かったから!
・゜゜・(>_<;)・゜゜・。
どこかへ逃げたいけど、逃げ場は無い。
逃げるお金も無い。
こんな時は、次の制作を始めるのが一番!
・・・なんでしょうけど、暑くて湿気てて頭痛くて、行動起こせず。
ずっと頭が痛い。(比喩ではなく)
色々な声が聞こえる。
『こんなことでは困る』
『一体なにをやってるんだ』
『期待はずれでした』
『もっと精進してください』
『もっと交渉力を持たないとね』
『今が分かれ道ですね』
そうか、分かれ道か。
絵の出来不出来のことなら、私が悪いと認めるけど。
その他のことについて考えるのが、苦痛。
自己主張を上手くできない人間。
交渉力の無い人間は、
「やっていけない」なら、
やっていけなくてもいい、と思う。
そもそも、「やっていける」ために絵を描いてきたんじゃない。
やっていけなくても、やっていけても、絵を描いていくことには関係が無い。
私はこれまで、絵を描いて、どうなりたいと思ってきたのか。
どうにかなりたいなんて、最初から思ってなかったのか。
少なくとも、
『できるだけ出費を少なく個展が出来るようになりたい』
とは思ってきたので、今回その希望が叶えられたということは、
間違いなく、めでたく嬉しいことではある。はず。
でもそれと、『交渉力』とか『自己主張』とか、直接関係あるのか?
『分かれ道』って、どっちへ行ったらどうなるって???
私がこれからどこへ行くのか、誰か正確に知ってる人がいるのか?
知ってるなら、なんでそんなことを知ってるのか?
なんでそう、自信たっぷりにものを言えるのか?
・・こんな性格だから、「やっていけない」んだと知っている。
やっていけないなら、やっていけないでけっこう。
ただ単に人の目の届く場所から退場するだけのこと。
退場したって、死ぬわけじゃなし。
はい、けっこうけっこう。
ああ、頭が痛い。(比喩ではなく)
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やまさん
学芸員さんの資格をお持ちでしたか!
私の文章は、超個人的な一ファンの感想なので、専門の方に言わせると言語道断!かもしれませんので、あまり本気で読まないでくださいね〜。
ファン・エイクの時代、「ネーデルラント(=低い土地という意味)」は、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク、そしてフランスの一部を含む地域の総称でした。現在でも、オランダを「ネーデルラント」と呼びますよね。
私は中世の臭いをちょっと残した頃の「いびつな絵画」が好きなので、ロベール・カンパン、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、デュルク・バウツ、ハンス・メムリンク、などなど、ファン・エイクの時代周辺の人たちが好きなんです。イタリア人では、フラ・アンジェリコが大好きです。
私の趣味は何にしても、王道から少しずれていて、マイナー傾向にありますね。彼らの作品の、「異様に硬くて細かくて暗めで開放感の無い感じ」に、共感するんですよね。
(それでも、同時代の画家とは思えないくらい、ヤンの作品のクオリティは他の画家のそれに比べて突出しており、「天才は突然変異的に現れる」ものなのか、と思えます。)
生没年で比較すると、ヤン(1390年頃〜1441年)は、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1519年)と、ちょうど入れ替わりで世を去ったわけです。ヤンは、イタリア・ルネッサンスの先駆けの時代に生きた人だったのですね!
やまさんちの睡蓮さん、よく咲いてますねー!
私も来年は挑戦しようかな、とか、ちょっと企んでいたりして・・
(;^^)ヘ..
盆栽中年さん
>土に植えて放って置くだけでも 一つや二つは花が咲くはず
え・・・・・・(@_@;)
それなのに、こんなに手こずっている私。
あ。ご報告遅れましたが、盆栽中年さんが使っておられる、
『花工場』を使い始めました。なかなか良いですね!
確実に栄養が行ってる気がします。ありがとうございます。
私もイタリア・ルネサンス頃の作品を見てよく思います。
「これってホントに"あのイタリア人"たちが作ったんか・・?」
あの、アモーレ!アモーレ!の人と、結びつかないんですよ。
で、個人的に考えたんですが、その当時っていうのは、
気候が今よりも寒くて、人々の性格とか行動規範っていうのが、
今とは全く違っていたのでは?と。
現に、当時描かれた人物の服装を見ると、シャツにベストに外套に帽子・・
かなり厚着ですよね?温暖な国イタリアじゃないみたいに。
とすれば、寒い時にはお家でお籠もりして机に向かい、
鬱々と遠近法の研究してたとしても、それはそれで有りの気がするんです。
そして、「神を称えるための芸術」から、
関心が、「人間」へと移り始めた時代が、ルネサンスであったとすれば、
「天上界」ではなく「人間が生きている現実の世界」を写すために、
「見えたとおりに表現するための手段」としての遠近法が生まれても、
それもまた納得がいく気がします。
「表現」っていうのは、基本的に、いつの時も、
その「時代」の人々の生き様を写しているものなんだと思います。
まあ詳しくは、専門家の方がちゃんと調べて書いてくれているでしょうから、自分でこんな勝手な推理をするよりも、そっちを読んで勉強するべきですよね!
(^_^;)
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世話をしている私の調子は最悪ですが、ロータスさん達はまあまあ元気です。
『Lotusのツボ5』更新しました。
ではみなさまさようなら。
よいお盆を。
急な雨、河川や水路の増水、土砂災害には気を付けて。
合掌 (-人-)
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