『物語の誕生』について ― 2010年09月30日 23時59分54秒

(「おはなし おはなし」(河合隼雄 著/朝日文芸文庫)これは良い本です!)
私、小説なんか書かないし、お話を考えるなんてこともしないので、
物語をつくることに関してズブの素人で、とてーも縁遠いのですが。
しかし最近よく私以外の人が「物語をつくっている」、
まさにその瞬間に出くわしたり、
「人がお話を作ることの弊害」を見聞きすることが多いので、
本日はそういう日常における、安易で危険な『物語の誕生』について。
まず、最近のニュースから。
『凛の会事件』
(ご存知。「郵便割引制度に関係した偽の証明書発行事件」で、
厚生省の村木厚子さんが逮捕後、無罪とされた事件ですね。)
この件で「無罪判決」が出た時のニュースを、
私と一緒に雑談しながらテレビをチラ見していた人が、
「やっぱりこの人、やってたんやな。」と言うのを聞いて、
「(ノ゚ω゚;)ノ え?!」とビックリしてしまいました。
しゃべりながら目だけでニュースの画面を追っていたその方。
村木さんが「逮捕された時の映像」が流れるのと、
今見てるニュースで(「無罪」が)「大々的に報道されている」のを勝手に繋げて、
「なんかまた大騒ぎしてる」
+
「村木さんがまた逮捕されてる」(しかしこれは最初に逮捕された時のVTR)
=
「やっぱりこの人がやったのか。他にも何かやってて再逮捕か〜。」
と、こんなお話を勝手に作り上げてしまっていたのでした。
これはビックリ。
事実はまったく逆なのに!
「やっぱりこの人、やってたんやな。」と口に出して言ったから、
「無罪判決が出たんやで、逆やで。」と、
私が間違った解釈をすぐに訂正することが出来たけど・・・
この時点で勝手な解釈で誤解したまま、それをまた他の人に言ってたら、
それってどうなのよ?でした。
で、その「村木さん無罪確定」と入れ替わりに出て来たのが、
『大阪地検特捜部の主任検事が証拠のフロッピーディスクをを改ざんした』
という報道。
フロッピーディスクの更新日を改ざんすることで、
検察側が筋立てた犯罪ストーリーにぴったり当てはまるような、
村木さんの有罪を確定する証拠になるような、そういう細工を、
検察がやった、というお話。
あらまあ、また出たよ。「お話作り」が。
『事実』よりも『作られた物語』の方が魅力的ということか?
人が『物語をつくる』っていう営みは、
人間が日々を生き、前に進むためには、そんなにも欠かせない作業なのか???
* * *
『物語をつくる』ことは、
「ある複雑なことを」
「複雑なそのこと以外のカタチで表現し直し」
「わかりやすく筋立てて」
「人の心に納まりやすくする」
という、『加工作業』のようなものだと思うのですが。
でも、よく考えてみると、
「複雑なものをわかりやすくする」
「もともとのこととは違う表現のカタチをとる」
という加工を施した時点で、
元の複雑な事象とは、まったく違うものに変化している、
そう考えた方がよい気がします。
(短く編集されたニュース映像などもそう)
で、その「加工」が、加工する側の良心に基づいて、
「もとの事象」のエッセンスを正しく伝えようという意志のもと、
きちんと施されているという保証など、どこにも無く、
加工する側の人間の、何らかの意図や歪曲や捏造が埋め込まれてしまう。
そういうことは、往々にしてあり得る話であります。
(例えばマスコミによる偏向報道や、根も葉もない噂や口コミなどと同様)
また、上に書いた例のように、意図的でもなく悪意も無く、
ただ単に注意力散漫な状態で、個人的にはさして興味も無い、たまたま得た情報を、
適当につなぎ合わせ、ただ単に自分が納得できるような、作りやすい物語を、
事実とは何の関係も無く、仕立ててしまうこともあります。
まあ、つまらん噂話とか、明らかに解釈の誤りと分かるような「作り話」なら、
もしそれが世の中に流布されたとしても、戯れ言としてすぐかき消されるでしょうが・・・
でも、上に書いた『物語の捏造』とも言えることは、なぜ起きるのか?
と、考えてみると、どれも根っこには『怠慢』がある気がします。
どういう『怠慢』かというと、
・事実をきちんと見ようとしない怠慢
・情報をきちんと収集しようとしない怠慢
・後先考えずに自分の考えを押し通す怠慢
究極的には、『怠慢』による『想像力の欠如』なんだろうな、と。
今、こういうことをする(しない)と、次どうなるか?
それを、現在の事実・過去の事実・未来の可能性・人の考え・自分の考え、など、
多方面から検証して、「多分、こうであろう」と、推測する力と、
それをすることが必要であると考える意志。
私自身も最近どんどんこの『怠慢』『想像力の欠如』の罠にはまっていってるんですけどね。
それにはひとつ、『歳を取っていってる』という事実が、
この傾向を助長させてる気がします。
間違い無く。
歳を取って行くってことは、色々なことを見て聞いて経験することだから、
脳内のデータベースには、おのずとたくさんのデータが蓄積されて行く。
そして、目の前で起きていることに対処する時、
データベースの中から、過去にあった事例や過去に得た知識を持ち出して、
それを無理矢理、今目の前で起きている事実に対して、疑いも無く行使する。
「おい、待てよ。そのデータ、今現在この事例にも有効なのか?」と、確かめることもせず。
歳を取って来ると、段々、そういうことを平気でやり始める。
だって、そうすれば、いちいち改めて考え直さなくていいし、楽だから。
まあ、それも「おばあちゃんの知恵袋」的に、ほのぼのしてられる事例ならよいですが、
何でもかんでも「経験と蓄積」で対応してると、
結局気がついたら、現実離れもはなはだしく、目測すっかり誤っていた、
みたいなことにもなりかねない。
周囲の人は、迷惑千万。
まさか、『凛の会事件』の捏造検事の所行を、「加齢のため」などとは言いませんが(笑)
結局、自分の考えた「お話」が現実離れしてしまっているにもかかわらず、
それをそのまま押し通そうとする、という行いは、
同じような過程をたどってる気がします。
現実が自分の作ったお話(=自分が持っているデータ)に合わないと知ると、
現実の方をねじ曲げて、自分のデータが生かされるよう変えようとする。
ただの近所の頑固じいさんなら笑えるけど、国家権力にそれやられると・・・
自分がやってることがおかしいかもしれないと、気がつきながら、
それを止められなかったということは、またさらに別の要因が、
(出世競争で負けられないストレスとか、個人的なプライドとか、、、)
あったのだろうな、という推測は出来ますけどね。
(もちろん、だから許される、とかいうお話ではないですよ。)
いずれにせよ、『お話』の負の側面が出てるような、残念な出来事でしたね。
と同時に、年々、時間をかけてものを考える事がおっくうになってきている自分を顧みて、
ちょっと怖くなったのでありました。
・・・( - " - ;)
***************************************************************************
さて、久しぶりに『Lotusのツボ Part6』更新しました。
もうすっかり秋ですが、今んとこみなさんお元気で、
今の時期に相応の状態で、生きておられます。
何より、何より。
では今日はこの辺で。
皆の衆、アディオス! (o ̄∀ ̄)ノ
最近のコメント