『調教師』 ― 2005年11月27日 23時57分41秒
舞台『調教師』を見てきました。

「調教-師」(78年頃)→「透明人間」(91年)→「水中花」(01年)→「調教師」(05年)と、
タイトルは変遷しているそうです。
中身について、私には解説できそうにないので、
こことか
こことか
こことか、見てください。
あと、この戯曲の作者である唐十郎という人については、
こことか
こことか、
唐十郎まつりとか、見てね。
感想。
色んな意味で、きれいだな〜と思いました。
劇場は最近建ったばかり。
出演している役者は、有名どころ、きれいどころ。
セットも(きたないけど)きれいに作られていた。
役者さんのセリフも、ちゃんと聴き取れたし。
美しい役者さんが、美しく、ぽちゃん...と水に落ちるところも。
降ってきた雨が、屋根を落ち、雨樋を伝い、水槽にパシャパシャと落ちるところも。
本当にていねいに、戯曲を大事にして、きちんと作って演じたな〜、と。
そういう気持ちが、伝わってくる舞台でした。
「良かった」です。
でも、きれいでていねいすぎて、戯曲の持っている強烈な猥雑さとか、
切れそうな繊細さとか、そういう、異常に突出してるはずの部分が、
特に突出することもひっかかることも無く、きれ〜にツルンと流れて行ってしまったみたい。
そこが、もったいないな、と思いました。
でもそれが、こういうきれいな舞台+役者さんでの表現方法なのかな、と。
大〜むかし、劇団唐組のテント公演「ジャガーの眼」「電子城」を、
ある神社の境内で見た時の、問答無用な圧倒的な印象とはまったく違っていて、
(「調教師」という戯曲そのものの性質もあるし、席が舞台から遠かったこともあるけど)
演出と役者と場所で、こんなに違うものなのか!と、感心してしまった。
むかし、テントで見たものは、何だったんだろう?
唐組のテント公演では、役者さんが大声で叫ぶようにセリフを言うので、
何を言っているのかわからないことが多かった。
でも、そのワケのわからないセリフが、役者さんの不合理な大きな動きが、
確実に、そこに特異な「場」をつくっていた。
ふしぎ。
また、テント公演を見たい、と思いました。
「ジャガーの眼」、もう1回見たいな。他の芝居でもいいけど。
ああでも、唐十郎の戯曲というのは、ほんとに詩に近いなあ、と思います。
話の筋がわかるとか、意味がわかるとか、そういうことじゃない。
言葉に熱とか質感とか湿気とか動きとか重さとか軽さとか強さとか弱さとか、
もちろん、言葉が本来持っている意味も、ぜんぶ含み入れて、
他人から見ると、何の脈絡も無いのに、
「私にひっかかってきた言葉」というただ一点だけで、
舞台の空間にバシバシ投げ入れて行く。
それが確実に縦糸・横糸で紡ぎ合わされ、ひとつの「世界」を生む。
何か、ものすごく具体的なものの在り方に似ているような気がするけど、
それが何か、今は思いつかない。
いや、おもしろい。
「じぇいさん、演劇のチケットあるねん、行かへん?」
と、およそそういう人(唐十郎みたいなカルトな作家)と縁の無さそうなWさんから、
翌日の昼公演のチケット2枚を見せられた時には、驚きました。
でも、「見たい!」と思ったので、即いただきました。
いただいてすぐ、「どうするよ、これ(=もう1枚)??」と考えました。
そんで、仕事場からすぐにブログにアップしまして、同行者を募集した次第。
反応してくれた方がいて、良かったです。
しかも、唐十郎の大ファンで、唐組の公演は逃さず見ていると。
たまには、唐組じゃない唐を見るのも良いでしょう。
チケットが生きました。私も嬉しかったです。
よかったよかった。
そんな昨日でした。
明日は...ついに!親不知を抜いて参ります。
明日、無事生きていたら、また報告いたします(/_;)
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